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コラム

明晰な日本語表現に向けて

産業日本語研究会世話人会
顧問
長尾 真(国立国会図書館長)

PROFILE
1994年に電子図書館アリアドネを公開。
2000~2007年、日本図書館協会会長。

 

1言語処理の歴史

言語をコンピュータで扱う研究は1950年頃から行われ始めたが、コンピュータの能力の向上と記憶容量の拡大によって徐々に実用の時代に入って行った。情報検索の技術は1960年前後にほぼその枠組が出来上がったし、種々のテキスト処理技術がその後発展して行った。

日本における技術としては、なんといってもカナ漢字変換のワープロが1980年代に入って広く使われるようになったことだろう。これによって日本語情報処理が飛躍的に促進され、日本語のテキストデータがどんどんとコンピュータに入れられるようになった。その後パソコンが普及し、インターネット時代にはいると、誰もが文書を作り、お互いにやりとりしたり、不特定多数の人に発信するという時代になって来た。

このような日本語情報処理技術の発展の中で、特許庁がネットワークを通じた電子申請を受けつけるようにしたのは大きな出来事であったといわねばならない。これは1960年代から営々と努力して来た日本科学技術情報センター(現在の科学技術情報機構)の文献速報が本格的な科学技術データベースとして日本中から頼りにされて来ているのと同様に、社会によく受け入れられ、また利用されている言語処理の実用システムである。

2機械翻訳の難しさ

こういった言語処理技術の発展と社会における実用状況にくらべて、言語情報処理の歴史の最初からずっと努力されて来た機械翻訳システムが、非常に限られた範囲でなんとか使われてはいるが、一般的な意味ではまだまだであるというのはなぜかということをよく考えてみる必要があるだろう。

言語の翻訳は原文を解析し、翻訳の対象となる言語の単語や構造に対応させた後、その言語の文(目的文)の形に合成していくプロセスをとる。そのために両言語の文法や辞書、両言語の対照文法や翻訳のための辞書等を整備しなければならない。これらはいずれもぼう大なものになるとともに、完全な形に作り上げることができないところに根本的な問題がある。

それは言語が生き物であって常に変化し、また拡大していっていること、また単語1つをとっても種々の意味で使われること、文の構造を考えても種々のあいまいさを持っている、といったところにある。科学技術分野は特に発展が急速で、それにつれて新しい概念、新しい用語がどんどんと作られている。これらをその都度集め、翻訳のための言語を与えねばならない。

文の構造のあいまいさにはいろいろとあるが、簡単な例として、

美しい帽子をかぶった女性
を考えてみよう。この場合、帽子が美しいのか、女性が美しいのかが決定できないから、英語に訳すとき
a woman whose bonnet is beautiful.
a beautiful woman who wears a hat.
のどちらにしたらよいかが分らないのである。帽子も形や装飾によってhatが適切なのか、bonnetが使われるべきか変ってくる。

したがって文書を作るときは、あいまいさが出来るだけ生じないような文体とすることを常に心がける必要がある。上の例で、もし女性が美しいということを言いたければ、 帽子をかぶった美しい女性 というように語順を入れかえて、一意的な解釈になるようにすることが望まれるのである。
こういった構文上のあいまいさは、文が長くなればなるほど多く出てくるわけで、こういった文章はコンピュータで解析する場合に非常に困難をともなうことになる。

こうして機械翻訳された結果が読みにくいだけでなく、完全な誤訳になるということがしばしば起るのである。

3明晰な表現への努力

よく言われるように政治家の発言、やりとりには意味不明なのが多い。こういった表現を避けるべきことは科学技術関係の文章においては当然のことであるが、意味を明確に表す文章を心がけたとしても、文の構造上のあいまいさなどを出来るだけ減らすことを考えねばならない。

これからは科学技術関係の資料は外国語に翻訳しなければならない機会がますます増えていくし、そうでなくても特許関係の文章の場合、解釈が複数可能という時に先取権を競ったりすれば、不利になったりする可能性も出てくる。

以前は意図的にどのようにも取れる表現にして、係争にできるだけ有利なようにしようとしたりしていたが、今日ではそれがからなずしも良いとは限らない。むしろできるだけ明確に規定をし、主張する特許の範囲を広く取りたければ、広く取れるように明確に書くこと、主張する特許の範囲がここまで広がっているのであるという範囲を明確化するということが、むしろ有利に働くという時代になって来ているのではないだろうか。そういった意味でも明晰な文章表現の技術を確立する努力が必要である。

4明晰な文章のための工夫

明晰な文章を作ることは単に特許申請文章の場合だけに限らない。一般的な科学技術関係の文章はもとより、企業などが顧客に示す機器の取扱い説明書などにおいても重要である。もしあいまいな解釈を許したり、誤解をまねくような文章になっていた場合には、事故に結びついたりする危険性が出てくるからである。

そこで明晰な文章の書き方はどのようなものであるかということになるが、これを明確に規定することが難しいというジレンマに遭遇する。以下には少なくともよく配慮すべきであるという事項を列挙しておこう。明晰な文章の書き方については今後の実践的な研究にまつところが大きい。

明晰な日本語文章のために配慮すべき事項の幾つか:

  1. 1つの文を出来るだけ短くする。こうして構文上のあいまいさを出来るだけ少なくする。
  2. 文中の各語句の係り受け関係が明確になるよう、修飾する語句は修飾される語句に出来るだけ近いところに置く。
  3. 文の主語を省略せず、明確化し、主語と述語との対応関係を正しくとる。
  4. 指示詞が何を指すか、かならずしも明確でないことがあるので、できるだけ指示詞を使わずに、指示詞の指す語句そのものを使う。
  5. 助詞の“に”や“で”などは種々の意味で使われるので、できるだけ一意にとれる他の語句を使う。たとえば“に”の場合、“において”、“に対して”、“のために”といった書き方を用いるよう配慮する。
  6. 文と文のつながり関係をできるだけ明確にする。文Aにつづいて文Bがあるとき、“A。したがってB”、“A。その理由はB”、“A。なぜならばB”といった工夫をする。
  7. 用語については、文章中で同一のこと指す語は常に同じ用語で表現することはもちろんのこと、比喩的な語でなく、できるだけ正確な用語(専門用語があればそれ)を用いるよう心がける。
  8. 極端に長い専門用語等はできるだけ避けるようにする。

以上のようなことは多くの文章を書く中で訓練して習得していく必要がある。またワープロの中にこういったことをチェックする機能をつけて、書く人の注意を喚起することも必要である。たとえば長い文の場合に警告を出したり、“に”には“において”や“に対して”などの他のありうる表現を表示して、どの意味ですかと質問して選択させるなどの工夫によって、出来るだけあいまいさの少ない、明確に理解できる文章を作れるソフトウェア環境を整備することが必要だろう。

(Japio 2008 YEAR BOOK寄稿集特別寄稿より)